本句における最大の歴史的ミステリーであり、昭和の文壇・アカデミズムを巻き込んで大騒動へと発展したのが、「岩にしみ入る蝉の声」の蝉の種類の真相をめぐる論争です。俗に「蝉吟論争(せんぎんろんそう)」と呼ばれるこの論戦は、単なる文学愛好家の雑談ではなく、科学的検証と文学的直観が激突した知の格闘劇でした。
火蓋を切ったのは、近代短歌の巨星であり精神科医でもあった斎藤茂吉でした。山形県出身である茂吉は、1926年(大正15年)から1927年(昭和2年)にかけて発表した論考のなかで、「芭蕉が詠んだ蝉はアブラゼミである」と猛烈に主張しました。「じりじりと油を煮えたぎらせるように鳴くアブラゼミの鳴き声こそが、岩にしみ入るような重みと力強さを持っている」というのが茂吉の直感的な論拠でした。
これに真っ向から異を唱えたのが、夏目漱石の愛弟子で独文学者・文芸評論家の小宮豊隆(当時・東北帝国大学教授)でした。小宮は1927年、「芭蕉が聴いたのはアブラゼミではなく、ニイニイゼミである」とする反論論文を発表。ここから両者による猛烈な紙上バトルが勃発しました。
決着のプロセスは、近代文学史における最も痛快な実証ドラマの一つです。小宮豊隆は単なる机上の空論を嫌い、次のような精緻な科学的アプローチを展開しました。
- 暦の補正:元禄2年5月27日は新暦の7月13日。アブラゼミが本格的に羽化して大合唱を始める時期としては早すぎる。
- 現地調査と標本採取:東北大学の生物学者らと協力し、7月上旬の立石寺境内における蝉の生息状況と鳴き声を現地で徹底調査。
- 鳴き声の音響的性質:ニイニイゼミの「チーーーー」という連続的な高音こそが、反響する巨岩の割れ目全体に隙間なく浸透する感覚に合致する。
この徹底的な実証データを突きつけられた斎藤茂吉は、自らも山寺現地へと足を運び、専門家の意見を聴取。自説の誤りを潔く認め、1932年(昭和7年)の著書『芭蕉雑俎』において「ニイニイゼミ説に服す」として全面降伏・謝罪したのです。