歴史の表舞台に名を刻む政治家たちが公の役職で手腕を揮ったのに対し、一橋治済 何をした人なのかという問いへの答えは「自らは無役のまま、体制そのものを私的ネットワークで覆い尽くしたフィクサー」という表現が正確です。
江戸幕府において、将軍家に後嗣がない場合に後継者を供給する予備プールとして設置されたのが、田安・一橋・清水からなる御三卿 一橋徳川家でした。明和元年(1764年)、治済は一橋家の第2代当主となります。治済は自らの立場が「政治的決定権を持たない傍流」であることを熟知しており、だからこそ将軍家そのものの血統を乗っ取る長期的シナリオを描きました。
最大の転機となったのは、第10代将軍・徳川家治の後継者であった徳川家基が安永8年(1779年)に18歳の若さで鷹狩りの帰途に急死した事件です。男子の後継を失った家治に対し、治済は自らの長男である豊千代(後の徳川家斉)を養子として送り込む工作を電光石火で成功させました。この鮮やかすぎる養子縁組のタイミングこそが、後世に至るまで「家基毒殺の黒幕は治済ではないか」と囁かれる発端となっています。
天明7年(1787年)、家治が病没すると、わずか15歳の家斉が第11代将軍に就任。将軍の実父となった治済は「父の威光」を最大の武器として江戸城二の丸に移り住み、老中たちの頭越しに命令を下す二重権力構造を完成させました。