インターネット上の議論において、「稲尾は昭和プロ野球の過度なエース酷使によって潰された悲運の投手」と単純に括られるケースが少なくありません。しかし、当時の一次資料や三原脩監督との関係性を検証すると、この解釈は一面的であると言わざるを得ません。
当時の西鉄ライオンズ黄金期において、稲尾はただベンチの指示に従う受動的な駒ではありませんでした。三原監督の心理戦術(三原マジック)をグラウンド上で具現化する「フィールド上の指揮官」であり、自ら進んでマウンドに向かう強い当事者意識を持っていました。稲尾自身、後年の著書で「肩が痛いからといって降板するのは、仲間を見捨てるようなものだった。投げることこそが自分の存在価値だった」と述懐しています。
また、球速任せに投げ込むのではなく、相手打者の狙い球や足の運び、アンパイアのストライクゾーンの癖を瞬時に見抜く「投げる哲学者」のような頭脳派投手でもありました。打者の心理を読み切って最少の球数で打ち取る術を心得ていたからこそ、常人なら1年で肩を壊すような過酷な登板数にも長期間耐え抜くことができたのです。