人間に対して重篤な健康被害、最悪の場合は死をもたらす元凶こそが、線虫の一種である広東住血線虫(学名:Angiostrongylus cantonensis)だ。この寄生虫の本来の宿主サイクルはネズミ(終宿主)とカタツムリ・ナメクジ(中間宿主)の間で成立している。ネズミの肺動脈で成熟した成虫が卵を産み、便とともに排出された第1期幼虫をカタツムリが摂取することで体内で感染能力を持つ第3期幼虫へと育つ。
人間はこのサイクルの正規の宿主ではない「偶発宿主」にあたる。不運にも人間の体内へ幼虫が侵入した場合、幼虫は消化管の壁を突き破って血流に乗り、中枢神経系、すなわち脳や脊髄の硬膜下腔へと迷入する。人間の体内環境では成虫にまで成熟することができず、脳組織の中で死滅するのだが、真の悪夢はここから始まる。
脳内で死滅した虫体から漏れ出す異物タンパク質に対し、人体の免疫系が過剰なアレルギー反応を爆発させる。その結果引き起こされるのが「好酸球性髄膜脳炎(こうさんきゅうせいずいまくのうえん)」である。白血球の一種である好酸球が脳脊髄液中に異常増殖し、激しい炎症が中枢神経を破壊していくのだ。
感染から発症までの潜伏期間は一般的に約1週間から3週間(最短で数日、最長で30日以上)とされている。初期症状は風邪に似た倦怠感や微熱から始まるが、急速に悪化し、以下のような壮絶な症状へと移行する。
- 激しい頭痛:「頭が割れる」「ハンマーで殴られ続けるような」と形容される耐え難い疼痛。
- 知覚異常と激痛:皮膚に風が当たるだけで針で刺されたように感じる痛覚過敏、全身の痺れ。
- 神経麻痺・機能不全:顔面神経麻痺、視力低下、複視、頚部硬直(首が曲がらなくなる)。
- 重篤化:脳圧上昇による昏睡、痙攣発作、永続的な認知・運動機能障害。
世界中で報告されている症例の中でも、国際的に大きな衝撃を与えたのがオーストラリアの事例だ。報道や家族の手記によると、2010年、シドニーに住む当時19歳の有望なラグビー選手だったサム・バラード青年は、友人たちとの裏庭でのパーティー中、度胸試しとして目の前を這っていた生きたナメクジを飲み込んでしまった。数日後に体調を崩した彼は広東住血線虫に感染していると診断され、その後420日間にわたる長期の昏睡状態に陥った。意識を取り戻したものの、全身麻痺と重度の脳損傷により24時間の介護が必要となり、感染から8年後の2018年、合併症により28歳の若さでこの世を去った。母の手記に記された「一瞬の悪ふざけが、健康で輝いていた息子の未来を永遠に奪い去った」という言葉は、この寄生虫が持つ破壊的なリスクを物語っている。
日本国内においても決して対岸の火事ではない。国立感染症研究所の報告によると、2000年には沖縄県で7歳の女児が広東住血線虫による好酸球性髄膜脳炎で死亡した事例が確認されている。生息域のカタツムリやナメクジを口にしなくても、這った後の生野菜を十分に洗わずに摂取したことなどが感染原因として疑われており、日常のすぐ側に致死的な罠が存在することを示している。