ミレー『種まく人』なぜ物議?山梨とボストンへの旅とゴッホへの影響

ミレー『種まく人』なぜ物議?山梨とボストンへの旅とゴッホへの影響

ミレー『種まく人』なぜ物議?山梨とボストンへの旅とゴッホへの影響についての真相をお届けします。

19世紀中頃のフランス画壇において、絵画とは歴史画や神話画、あるいは貴族や富裕市民の肖像画こそが「高貴な芸術」とみなされていました。農民が登場するとしても、それは田園詩のように美化された牧歌的な背景の一部に過ぎなかったのです。

そうした既成概念を根本から打ち砕いたのが、ジャン=フランソワ・ミレー(1814〜1875)でした。ノルマンディー地方の敬虔な農家に生まれたミレーは、パリの画壇で生き抜くために一時期は生活費稼ぎの肖像画やパステル画を手がけていましたが、1848年に起きた二月革命、そして翌年のコレラ大流行を機に、パリを離れてフォンテーヌブローの森の入り口にある小村バルビゾンへと移住します。自然と共生する画家たちの集まりであるバルビゾン派の拠点で、ミレーは自らの原点である「大地に生きる農民の真の姿」を描く決意を固めました。

当時の自著や知人宛ての手記において、ミレーは次のような率直な告白を残しています。

「私は農民として生まれ、農民として死ぬ。私には農村の生活しか分からない。きらびやかなサロンの甘美な主題など、私の心には何ひとつ響かないのだ」

こうして生み出され、1850年のサロンに出品された『種まく人』は、見る者に強烈な戦慄を与えました。描かれていたのは、従順で愛らしい農民ではなく、粗末な作業着を身にまとい、激しいストライドで大地を踏み荒らすように歩く、泥臭く筋骨隆々とした労働者だったからです。折しもフランス社会は、1848年革命の影響による労働者階級の蜂起の記憶が生々しく残っていた激動期でした。保守的な批評家やブルジョワジーは、キャンバスいっぱいに堂々と迫り来るこの男の姿に、自らの特権階級を脅かす「プロレタリアート(無産階級)の暴動」を重ね合わせたのです。

保守派の批評家たちは新聞紙上で「この男は種ではなく、銃弾をばら撒いて階級闘争を煽っている」「ブルジョワに対する宣戦布告だ」と口を極めて罵倒しました。一方で、詩人テオフィル・ゴーティエをはじめとする進歩派の論客は、「彼は大地を誇り高く歩み、神の恵みを未来へと託している」と絶賛します。まさに種まく人 評価と批判は当時のフランスの政治的対立そのものを映し出す鏡となり、ミレーの名は一夜にして物議を醸す異端児としてヨーロッパ中に響き渡ることになりました。

伊藤 翔太
著者

伊藤 翔太

マネー知識やキャリア形成に役立つノウハウを、初心者にも分かりやすく解説するのが得意です。