ネット上の掲示板やSNSでは、時折「ルマルシャンの箱はフランスの古城から発見された実在の呪物ではないか」「元ネタとなった事件が18世紀に実在した」といったオカルトめいた言説が散見されます。しかし、結論から申し上げれば、ルマルシャンの箱という特定の呪物は歴史上に実在しません。これは原作者クライヴ・バーカーによる卓越した世界観構築が生んだ完全なフィクションです。
では、なぜこれほどまでに「実在するのではないか」と錯覚させるリアリティがあるのでしょうか。その背景には、バーカーが巧みに編み込んだ実在の歴史的要素とオカルティズムの綿密なリサーチが存在します。
元ネタの核心にあるのは、18世紀ヨーロッパで実際に隆盛を極めた「オートマタ(自動人形)」技術の歴史です。当時、ジャック・ド・ヴォーカンソンやピエール・ジャケ・ドローといった実在の天才技師たちが、ぜんまい仕掛けで人間のように文字を書いたりフルートを演奏したりする驚異的な自動機械を次々と発表し、王侯貴族を熱狂させました。人々にとって精密機械は、科学と魔術の境界線が曖昧だった時代の「人知を超えた奇跡」そのものだったのです。
さらに、フランス革命直前の貴族階級に蔓延していた退廃主義(デカダンス)や、マルキ・ド・サドに代表される「苦痛と快楽の探求」という背徳的なサロン文化が、ルマルシャンの箱の誕生背景として色濃く反映されています。原作者クライヴ・バーカーは自著の手記や過去のインタビューにおいて、以下のような趣旨を述べています。
「私たちは痛みを避けるようにプログラムされているが、同時に痛みの極限に何があるのかを知りたがる破滅的な好奇心も持っている。パズルボックスはその矛盾した人間の欲望を具現化する鍵なのだ」
また、日本で古くから親しまれている箱根の「寄木細工の秘密箱」や、中国の伝統的な連環パズルなど、世界各地に実在する「手順を踏まないと開かない細工箱」の民俗学的魅力が、この架空の魔導書に血肉を与えていることも見逃せません。フィクションの細工箱に歴史のリアリティを完璧に融合させたことこそが、噂が一人歩きした最大の要因と言えます。