学校教育の現場で長年、田沼意次といえば「商人と癒着して私腹を肥やした奸臣」と教えられてきました。しかし、近年の歴史研究や同時代史料の精査により、田沼意次の現在の評価は劇的な転換を遂げています。結論から言えば、彼が推し進めたのは利権誘導ではなく、硬直した幕府財政を根本から立て直す構造改革でした。
第8代将軍・徳川吉宗が進めた「享保の改革」は、新田開発と質素倹約を柱とする徹底した重農主義でした。米の収穫量を増やすことで年貢収入を確保しようとしたものの、皮肉にも米が増産されると米価が暴落し、武士階層の困窮を招くという「豊作飢饉」のジレンマに陥ります。土地の生産性には物理的限界があり、農業年貢だけに依存する国家財政はすでに制度疲労の極致に達していました。
こうした構造的危機を打破すべく登板したのが田沼意次です。第9代将軍・徳川家重の小姓から頭角を現し、第10代将軍・徳川家治の絶大な信任を得て側用人、そして1772年には幕臣叩き上げとして異例中の異例となる老中就任を果たします。門閥譜代大名が牛耳る幕閣において、能力主義で頂点へ登り詰めた田沼は、米偏重経済から貨幣経済への大胆なパラダイムシフトを決行しました。「商業活動を活発化させ、そこから税を徴収して国富を増大させる」という、西洋の絶対王政期にも匹敵する重商主義への転換こそが、田沼政治の本質です。