慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて、徳川家康に対抗した上杉景勝と直江兼続は、戦後に領地を出羽国米沢(山形県米沢市)30万石へと大幅に減封されました。さらに寛文4年(1664年)、第3代藩主・上杉綱勝が後継者を定めないまま急死。本来であれば改易(お家取り潰し)の危機でしたが、名臣・保科正之の尽力と吉良義央(上野介)の長男・綱憲を養子に迎えることで存続が認められたものの、領地は15万石へ半減されるという過酷な運命を辿ります。
領地は8分の1に激減したにもかかわらず、上杉家は越後以来の家臣団をほとんど解雇しませんでした。その結果、藩財政は極度の困窮に陥り、江戸中期には累積赤字が20万両(現在の価値で数百億円規模)に達します。第8代藩主・上杉重定の時代には、藩主自らが「乱舞(能)に励むべし」と触れを出し、豪華な能舞台を造営するなど奢侈に流れたため、藩政は完全に破綻寸前となりました。
この絶望的な状況を打破したのが、日向高鍋藩(宮崎県)秋月家からわずか10歳で養子に入った第9代藩主・上杉鷹山(治憲)です。鷹山は就任早々、自らの生活費を8割削減し、木綿の衣服と一汁一菜を徹底。農民の救済、漆や桑の植樹、米沢織(絹織物)や米沢鯉の養殖といった殖産興業を推し進めました。藩校「興譲館」を開いて人材育成にも注力し、天明の大飢饉では領内から1人の餓死者も出さなかったと伝えられています。
鷹山が次代の治広へ家督を譲る際に贈った『伝国の辞』には、「国家は先祖より子孫へ伝え候国家にして我私すべき物にはこれ無く候(国は君主の私有物ではない)」という民主主義の本質を突いた統治哲学が刻まれており、後の米国大統領ジョン・F・ケネディが「最も尊敬する日本の政治家」として鷹山の名を挙げた逸話は世界的に知られています。