かつてベストセラーとなった通俗心理学本では、「左右の大脳半球を結ぶ神経線維の束である脳梁の太さに男女差があり、女性のほうが太いため右脳と左脳の連携がスムーズでマルチタスクが得意である」という説がまことしやかに語られていました。しかし、この言説に対して神経科学界からは強い疑義が呈されています。
東京大学が発表した学術的な言説分析資料「ステレオタイプに陥らないために──『男性脳・女性脳』の言説」においても指摘されている通り、性別による脳の違いに関する議論は、極めて単純化された固定観念に支えられてきた側面が否定できません。MRIを用いた大規模なメタアナリシス研究では、脳全体の体積差を補正した場合、脳梁の太さや形状に有意な性差は確認されないという結論が世界の研究機関で定説化しています。科学的根拠と神話説の境界線を見極める視点が不可欠です。
イスラエルのテルアビブ大学のダフナ・ジョエル教授らが実施した1,400人以上の脳画像解析でも、「純粋な男性脳」「純粋な女性脳」を持つ個体は全体の8%未満に過ぎず、大半の人間は男性的な特徴とされる領域と女性的な特徴とされる領域が入り混じった「モザイク脳」を持っていることが実証されました。
一方で、生物学的な性差が完全にゼロというわけでもありません。国立精神・神経医療研究センター(NCNP)神経研究所などの先端研究グループは、発達期における性ホルモン(テストステロンやエストロゲンなど)の分泌が神経回路の構築に影響を及ぼすメカニズムを分子レベルで解明し続けています。つまり、生物学的なバイアス(傾向性)は微小に存在するものの、大人の行動や認知の劇的な違いを「脳のハードウェアの構造差」だけで説明するのは無理があるというのが、現代の脳科学が下したフェアな見解です。