高島野十郎(本名:高島弥寿)は1890年、福岡県久留米市の裕福な醸造家に生まれました。幼少期から学問に秀で、東京帝国大学農科大学水産学科へ進学して恩賜の銀時計を授与されるほどの首席で卒業したエリートでした。しかし、周囲が期待した農商務省の官僚や研究者への道を一切拒絶し、絵画への専念を宣言します。
当時の日本の洋画界は、帝展(官展)や二科展などの美術団体に所属して名声や地位を築くことが画家の一般的な出世コースでした。しかし野十郎は終生、いかなる画壇や美術団体にも属さず、師弟関係も持たず、公募展への出品も初期のわずかな機会を除いて頑なに拒み続けました。自らの手記において「絵画は世俗的な名誉欲や金銭欲の手段ではない」と記し、ただ自然と神仏の真理をキャンバスに定着させることのみを行動原理としたのです。
1930年代の欧州留学を経て帰国した後は、東京や久留米、京都などを転々とし、晩年には千葉県柏市増尾の田園地帯に畳数枚ほどの粗末な掘っ立て小屋を自作しました。電気もガスも引かず、野良仕事で飢えをしのぎながら、ひたすらに絵筆を握り続けたのです。1975年、野十郎は85歳で人知れず老人ホームで息を引き取りました。生前の彼は世間から完全に忘れ去られた存在でしたが、没後、福岡県立美術館の学芸員らによる入念な調査と遺作展の発掘によって、日本の近代美術史を揺るがす「奇跡の写実画家」として全国にその名が轟くこととなりました。