ゴッホはこの大作を完成させると、熱狂的な期待を込めて石版画(リトグラフ)を刷り、親交のあった裕福な貴族出身の画家アントン・ファン・ラッパルトに送った。だが、返ってきたのはゴッホの自尊心を粉々に打ち砕くほどの容赦ない酷評だった。
ラッパルトは手紙でこう書き殴った。 「君はいったい何を見ているのか?あの腕の不自然な短さは何だ。鼻の歪み、胴体と脚のバランスの崩壊。君の手にかかると人間が皆グロテスクな人形に見える。ミレーを敬愛していると言いながら、これではミレーを冒涜しているに等しい」
解剖学的な正確さやアカデミックなデッサン力を絶対視していた当時の主流派から見れば、本作の人物造形は「下手くそな狂気」にしか映らなかった。深く傷ついたゴッホは激怒し、ラッパルトとの手紙のやり取りを断ち切った。二人の友情はこの批判をきっかけに完全に崩壊する。
さらに悲痛だったのは、パリで最先端の印象派絵画に触れていた弟テオの反応だ。モネやピサロの描く光に満ちた明るい色彩がパリを席巻し始めていた1885年において、泥に沈んだような陰鬱なオランダ絵画を売ることは極めて困難だった。テオは画商としての立場から「パリの画廊では誰もこの暗い絵に関心を示さない」と率直に告げざるを得なかった。
しかし、ジャガイモを食べる人々 評価と批判の経緯において驚くべきは、ゴッホが決して自らの信念を撤回しなかった点にある。彼は死の前年、1889年にサン=レミの精神病院からテオへ宛てた手紙の中でもこう書き記している。 「もし私が何か価値のあるものを残せたとすれば、それはニューネンで描いたあのジャガイモを食べる人々の絵だ」
死後、妻ヨー(テオの妻ヨハンナ・ファン・ゴッホ=ボンゲル)の献身的な宣伝活動と回顧展を通じて、本作は「印象派の単なる模倣ではない、ゴッホの根源的な魂の叫び」として再評価された。外見の形態模写を超えて労働者の内面と尊厳を抉り出した表現主義の先駆として、美術史にその名を刻むことになったのだ。