ネット上のまとめ記事や一部の歴史エッセイなどで長年にわたり広まってきたのが、「明治政府ペナルティ説」です。これは「戊辰戦争で明治新政府に弓を引いた旧幕府側の藩(賊軍)は、由緒ある城下町の名前を県名に使わせてもらえず、郡名などに変えられる罰を受けた。逆に官軍側は都市名と県名が一致している」という俗説です。
作家の司馬遼太郎氏が随筆などでこの推論を展開したことで一般に広く定着しましたが、近年の歴史学界における公文書(太政官布告や内務省記録)の検証により、この仮説は明確に否定されています。
客観的な事実を突き合わせるだけで、ペナルティ説の破綻は明白です。新政府軍の主力であったはずの尾張徳川家(愛知県名古屋市)や津藩(三重県津市)は県名と市名が一致していません。津藩にいたっては鳥羽・伏見の戦いで官軍側に寝返り決定的な功績を挙げたにもかかわらず、県名は「安濃津」ではなく「三重」です。
一方、幕府側の急先鋒であり新政府軍と激戦を繰り広げた会津藩を抱える福島県(福島市)や、東北列藩同盟の庄内藩があった山形県(山形市)は、県名と県庁所在地が見事に一致しています。もし懲罰的な意図が基準であったなら、真っ先に改称されるべき地域がそのまま残されている説明がつきません。
実際の歴史的経緯は、1871年(明治4年)の廃藩置県に端を発します。当初、全国に300以上乱立した県を統廃合する過程で、明治政府が最優先したのは「封建領主の支配意識の払拭」でした。旧城下町の名称をそのまま県名にすると、領民が以前の藩主(殿様)への忠誠心を引きずり、中央集権化の妨げになると警戒されたのです。そのため、庁舎を置いた場所の「郡名」を機械的に県名に採用したケースが多発しました。
また、明治初期は激しい府県統合が繰り返され、複数の藩が合体する際に特定地域の優遇感を和らげる妥協案として郡名や広域地名が選ばれたのが史実に基づく実態です。