家康の旗印「厭離穢土欣求浄土」の真意とは?大樹寺の覚悟と歴史の真相

家康の旗印「厭離穢土欣求浄土」の真意とは?大樹寺の覚悟と歴史の真相

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来世への救いを求める宗教用語が、なぜ戦国の修羅場を駆け巡る軍旗に採用されたのでしょうか。そこには、徳川家康(当時は松平元康)の生涯を決定づけた「人生最大の挫折」が深く関わっています。

発端は永禄3年(1560年)、天下を揺るがした桶狭間の戦いです。当時19歳の家康は、駿河の今川義元軍の先鋒として織田領の大高城に兵糧を運び込む任務に成功していました。しかし突如、本隊の義元が織田信長に討たれたという急報が届きます。指揮系統は完全に崩壊し、織田軍の追撃が迫る中、家康は命からがら三河へ退却。先祖代々の菩提寺である松平家の菩提寺・大樹寺(愛知県岡崎市)へと逃げ込みました。

寺を取り囲む追っ手を前に、青年武将の心は極限まで追い詰められていました。忠義を尽くしてきた主君を失い、自らの本拠地である岡崎城へ戻れる保証もない絶体絶命の包囲網。前途に絶望した家康は、先祖の墓前で腹を切り、武士らしく潔く自害しようと刀に手をかけます。その刹那、自害を力づくで押しとどめたのが、大樹寺第13代住職・登誉天室(登誉上人)でした。

登誉上人は、死を選ぼうとする家康を厳しく一喝し、こう説き聞かせたと伝えられています。

「この世は戦乱に明け暮れ、人々が傷つけあう穢土(穢れた世)である。しかし、命を捨てて逃げることのどこに義があるのか。今、貴方がなすべきは、その武力と命をもってこの乱世を終わらせ、誰もが安心して暮らせる極楽浄土のような泰平の世を現世に創り出すことではないか」

登誉上人は、「死んで極楽に行く」という従来の解釈を「現世を浄土へと変革する」という武士の使命へ劇的にリフレーミング(再定義)してみせたのです。この言葉に魂を揺さぶられた家康は自害を思いとどまり、寺の僧侶や残存兵とともに織田軍を撃退。岡崎城への帰還を果たしました。そして、師から授かった「厭離穢土欣求浄土」の八文字を金泥で大旗に書き記し、自らの生涯の誓いとして本陣に掲げ続けることになります。

松本 悠斗
著者

松本 悠斗

マネー知識やキャリア形成に役立つノウハウを、初心者にも分かりやすく解説するのが得意です。