『大鏡』の記述は、まるで映画のワンシーンのような緊張感に満ちています。内裏から山科の元慶寺(花山寺)に至るまでの行程には、計算された心理戦と予期せぬドラマが連続しました。
脱出の夜、花山天皇が清涼殿を出ようとした際、月があまりにも明るく照り輝いていました。帝は「露見してしまうのではないか」と躊躇します。すると道兼は「そうこうしているうちに夜が明けてしまいます」と泣く泣く促し、雲が月を覆い隠した絶妙のタイミングを見計らって連れ出しました。
さらに道兼を冷やりとさせたのが、天皇の「忘れ物」でした。帝はふと思い出したように「忯子が書き残した手紙が文箱に入ったままだ。これを持ってこなければ出家などできない」と引き返そうとしたのです。もし誰かに見つかれば陰謀は水泡に帰します。道兼は内心の激しい焦りを隠しながら「そのような未練は出家の妨げとなります」と嘘泣きを交えて制止し、強引に門をくぐらせました。
一行が土御門大宮にあった陰陽師・安倍晴明の屋敷前を通りかかった瞬間、晴明が夜空の星を仰ぎ見て手を打ち、「帝が退位なさる天変が現れた。奏上せねば」と叫びます。晴明が目に見えない式神に「内裏へ急げ」と命じたところ、式神は「たったいま、当の御車が門前を通り過ぎて行かれました」と応えたという伝説的なエピソードも挿入されています。
山科の元慶寺に到着すると、天皇は疑うことなく剃髪し、仏門に入りました。そして、道兼の番となります。帝が「さあ、そなたも早く髪を落とせ」と促した瞬間、道兼は表情を一変させました。
「私は出家する前に、一目だけでも父にこの姿を見せ、暇乞いをしてまいります。出家はそれからでございます」
あまりにも白々しい言い逃れに、花山天皇はすべてを悟りました。「あさましきこと(あまりに呆れ返って言葉も出ない)」と茫然自失となり、ただ涙を流すばかり。道兼は護衛を引き連れてそそくさと京都へ戻り、兼家のもとへと駆け戻ったのです。