1333年(元弘3年/正慶2年)、幕府の屋台骨を揺るがす決定的な裏切りが発生します。後醍醐天皇の挙兵を鎮圧すべく西国へ派遣された有力御家人筆頭の足利尊氏(当時は高氏)が幕府に反旗を翻し、京都の六波羅探題を壊滅させたのです。
この報せが鎌倉に届くと同時に、関東の有力武士であった新田義貞が生品神社で挙兵。瞬く間に反幕府勢力を結集した新田軍は、破竹の勢いで鎌倉へと進撃しました。鎌倉は三方を山に囲まれ、一方が海に面した天然の要塞でしたが、新田軍による極楽寺坂、巨福呂坂、そして稲村ヶ崎からの怒涛の同時攻撃により、わずか十数日で防衛線は突破されます。
北条高時は出家して「崇鑑」と名乗っていましたが、防戦の指揮を執りつつも、次々と味方が離反していく絶望的な戦況に直面することになりました。幕府滅亡を決定づけたのは、高時の政治的判断の誤りというよりも、長年にわたり蓄積した御家人たちの不満が一気に足利・新田という旗印のもとに爆発した結果だったのです。