安国寺恵瓊は、安芸武田氏の出身と伝えられています。毛利元就によって武田氏が滅ぼされた際、幼くして安芸国安国寺(不動院)に入り出家しました。仏門にいながら卓抜した弁舌と知力を発揮した恵瓊は、東福寺の龍安寺などで修行を重ね、やがて毛利家の対外折衝を担う外交僧としての頭角を現します。
恵瓊の名を天下に知らしめたのが、天正元年(1573年)の手紙に残された有名な予言です。京都で織田信長と羽柴秀吉(豊臣秀吉)を間近に観察した恵瓊は、国元へ向けて次のような洞察を書き送っています。
「信長の代は5年、3年持ちたるべく候。高転びに転ばれ候と見え申し候。秀吉の儀、さしたる者と見受け申し候。やがて天下を取るべき器量あり」
この驚異的な先見性は、本能寺の変とその後の秀吉の台頭によって現実のものとなりました。中国大返しの講和交渉をまとめた恵瓊は秀吉の絶大な信任を獲得し、毛利家の外交窓口に留まらず、豊臣政権直属の取次役として権勢を振るうようになります。最終的には僧侶の身のまま伊予国内に約6万石もの領地を与えられ、名実ともに大名の一角に名を連ねました。