六孫王神社が「清和源氏発祥の地」と称される背景には、平安時代の皇室と武士の台頭を結ぶ決定的な歴史的転換点が存在します。主祭神である源経基は、第56代・清和天皇の第六皇子である貞純親王の長男として誕生しました。天皇の「六男」の「孫」にあたることから、親しみを込めて「六孫王」と呼ばれたのが社名の直接の由来です。わずか15歳で元服を迎えた経基は、源の姓を賜って臣籍降下し、ここに武家源氏の最大勢力となる「清和源氏」の血筋が産声を上げました。
平将門の乱や藤原純友の乱(承平天慶の乱)において武功を挙げ、武門の礎を築いた源経基は、かつてこの地にあった私邸「八条亭」で波乱に満ちた生涯を閉じます。その臨終に際し、経基は次のような強い遺言を残しました。
「我、死して龍となり、この池に住みて子孫の繁栄を祈らむ」
長男の源満仲(みなもとのみつなか)は父の遺志を受け継ぎ、邸宅跡の池の畔に霊廟を建立して「六の宮」と称したのが神社の創建の経緯です。後に鎌倉幕府の三代将軍・源実朝の正室であった本覚尼(坊門信子)がこの地に遍照心院を建立し、その鎮守社として再整備されたことで、源氏一門にとって不可侵の聖地として定着しました。
神社界および歴史学界において、六孫王神社は兵庫県川西市の「多田神社」、大阪府羽曳野市の「壺井八幡宮」と並び、「源氏三神社」の一角として不動の地位を確立しています。八幡大神(応神天皇)や天照皇大神を相殿に祀るその神域は、源平合戦から鎌倉幕府創設へと至る武士の時代の起点となった特別な磁場を今に伝えています。