「庭先で風流に鳴いている鈴虫の声を、電話越しに祖父母や友人に聞かせようとしたが、まったく聞こえないと言われた」――。このような経験談は、都市伝説ではなく完全な音響物理学・電気通信工学の事実です。電話回線という高度なインフラにおいて、鈴虫の鳴き声は「伝送すべき音声」ではなく「遮断すべき雑音」の領域に位置づけられています。
人間の耳が認識できる可聴域は約20Hzから20,000Hz(20kHz)と広大ですが、鈴虫の鳴き声の主周波数は約4,000Hz〜4,500Hz(4.5kHz)という非常に高い帯域に集中しています。これに対して、固定電話や旧来の3G携帯電話で長年採用されてきた通信規格(AMR-NBなど)は、効率よく人間の話し声を送受信するために300Hz〜3,400Hzという限られた周波数帯域(ナローバンド)しか通さない設計になっています。つまり、4,000Hzを超える鈴虫の高周波は、通信網の入り口に設置された「バンドパスフィルター」によって完全に切り捨てられてしまうのです。
「2026年現在の高音質通話(VoLTE HD+)やオンライン会議ツール、LINE通話なら聞こえるのではないか」という疑問も生じます。最新の音声通話規格(AMR-WBやEVSコーデック)は、最大14,400Hz〜20,000Hzまでカバーしており、周波数のスペック上は鈴虫の声を捉えることが可能です。しかし、ここで新たな障害となるのが、近年のスマートフォンに標準搭載されているAIノイズキャンセリング機能です。
スマートフォンの内蔵チップは、マイクに入力された音から「人間の声のフォルマント構造」を瞬時に識別します。周期的に鳴り響く「リーン、リーン」という機械的な高周波パルス音は、AIによってエアコンの作動音や金属摩擦音と同じ「環境雑音(バックグラウンドノイズ)」として判定され、リアルタイムで強力に消去されてしまいます。通信技術が進化して帯域が広がった現代においても、皮肉なことにノイズ除去アルゴリズムの進化によって、鈴虫の歌声は電話越しに届かない仕様が続いているのです。