無実の言葉を捏造され、命を奪われるに至った決定的な契機が、1785年に発生した「首飾り事件」です。総額160万リーヴル(現在の貨幣価値で数十億円相当)におよぶ超豪華なダイヤモンドの首飾りを巡り、詐欺師ジャンヌ・ド・ラ・モット伯爵夫人がロアン枢機卿を騙して王妃の名を騙り首飾りを詐取しました。
マリー・アントワネット自身はこの詐欺劇に一切関与しておらず、裁判でも完全に無実であることが証明されました。しかし、当時のフランス世論は「傲慢な王妃が裏で糸を引いていたに違いない」と信じ込み、「赤字夫人(マダム・ディフィシット)」の悪評は決定的なものとなりました。王室の権威失墜は、1789年7月14日のバスティーユ襲撃を皮切りとするフランス革命の導火線となったのです。
革命激化後、一家はテュイルリー宮殿に軟禁され、1791年6月の「ヴァレンヌ逃亡事件」の失敗によって国民の信頼を完全に喪失します。さらに、実家であるオーストリアとの極秘連絡が露見し、反逆罪に問われることになりました。革命裁判所における裁判は弁護の機会も形式的なものに過ぎず、死刑判決は最初から決定づけられていた政治的処刑でした。