天保10年(1839年)、当時の諫早藩第11代当主である諫早家成の決断によって、この架橋事業は本格化した。度重なる洪水で木橋が流失し、領民が苦しむ姿を憂慮した諫早家成は、二度と流されない強固な橋の建設を命じたのだ。長崎の石工技術を結集し、川底から堅固に組み上げられた石造アーチ橋は、どんな激流にも耐えうる頑丈さを誇った。
使われた石材の加工精度は極めて高く、接合部に隙間を与えない職人技が光る。単なる通行手段を超え、領民の命を守る防災の要として設計された構造美こそ、時を超えて今なお遺される最大の理由と言える。