歴史愛好家やネット上の言説において、「もし呉三桂が長江を一気に渡って北京へ進撃していれば、清朝は倒れていたのではないか」という仮説が頻繁に語られます。当時の清朝内部の記録でも、長江以南が雪崩を打って反乱側に落ちた際、北京宮廷では動揺が広がり「一時的に満洲へ撤退すべき」という極論すら飛び交いました。
しかし、呉三桂が北京を奪回できなかった背景には、後世に語り落とされがちな三つの構造的盲点が存在していました。
第1の盲点は、呉三桂自身の戦略的優柔不断です。1674年に湖南省を制圧した際、呉三桂は長江を渡河して一気に北進することを躊躇しました。彼は武力による天下統一ではなく、「長江を境に南北で中国を二分し、自らを南方の皇帝として清朝に認めさせる」という妥協的和平を狙っていたのです。この数か月にわたる軍事的停滞が、康熙帝に北方軍の再編と江南防衛ラインの構築という決定的な時間的猶予を与えました。
第2の盲点は、大義名分の致命的な矛盾です。呉三桂は自らを正当化するため「明の仇を討つ」と宣言しましたが、民衆や知識人は彼がかつて永暦帝を縊り殺した事実を忘れていませんでした。明の遺臣たちから見れば、呉三桂は「二度も主君を裏切った卑劣な背信者」に過ぎず、反乱軍が思想的求心力を獲得することは最後までありませんでした。
第3の盲点は、反乱勢力間の利害不一致です。耿精忠と台湾の鄭経は沿岸部の補給拠点をめぐって武力衝突を起こし、味方同士で疲弊しました。理念なき私利私欲の野合であったがゆえに、清朝の調略が入ると一瞬で瓦解していったのです。