宮沢和史のキャリアを語る上で欠かせない金字塔が、1992年に発表され、1993年に全国的な大ヒットを記録した名曲『島唄』です。山梨県出身のロックバンドが、なぜ遠く離れた沖縄の魂を歌い、150万枚以上ものセールスを記録する国民的ソングを生み出せたのか。その背景には、宮沢の徹底した現場主義と真摯な祈りがありました。
きっかけは、アルバム制作のために初めて沖縄を訪れた際、ひめゆり平和祈念資料館で受けた未曾有の衝撃でした。沖縄戦の凄惨な事実と、生き残った語り部たちの静かな涙に触れた宮沢は、「本土の人間として、この島で起きた真実を知らずに生きてきた自分への怒りと恥ずかしさ」に打ちひしがれたといいます。公の場のインタビューでも、宮沢は当時の感情をこう振り返っています。
「観光地としての美しい沖縄の裏側に、決して風化させてはならない悲しみと傷跡がある。本土の人間である僕が沖縄の楽器(三線)を使い、沖縄音階で曲を作ることは、激しい批判を受けるリスクがあった。それでも、戦没者への鎮魂と平和への祈りを形にせずにはいられなかった」
沖縄の先人たちや琉球音楽の大家に直接教えを乞い、誠意を尽くして完成させた『島唄』は、県内限定発売のシングルから火がつき、やがて日本全土、さらにはアルゼンチンをはじめとする世界各国へと波及しました。この時期の宮沢は20代後半。表現者としての重責を背負い、鋭く研ぎ澄まされたその表情には、神がかり的な緊迫感と美しさが同居していました。
激動の音楽活動を支えたのが、1994年に結婚したタレントの光岡ディオンでした。二人の出会いは、FMラジオ番組での共演。音楽やカルチャーに対する深い造詣を共有し、互いを高め合える知的なパートナーとして結ばれました。家族構成は、夫婦と2男1女の5人家族。長男・氷魚、次男、そして長女と、子どもたちには幼少期から特定の価値観を押し付けず、自立した個として接する教育方針を徹底したことが伝えられています。