本作の文学的格調を一段と高めているのが、翻訳家中村妙子氏による流麗かつ緻密な訳文です。平易でありながら、登場人物の喉元に刃を突きつけるような緊張感を孕んだ名フレーズが随所に散りばめられています。
【深層心理を射抜く珠玉の名言】
・「世の中で一番恐ろしいのは、自分自身を正視することよ」(旧友ブランシェ・ハガード)
放蕩な生き方を選んだブランシェが、良識ぶるジョーンに対して言い放つ予言めいた一言。物語の幕開けに提示され、後のジョーンの運命を決定づけます。
・「君はいつも正しいよ、ジョーン。いつだってね」(夫ロドニー・スカダモア)
妻への全幅の信頼のように見えて、これ以上の対話を完全に断絶した夫の痛切な防衛の言葉。議論で相手を完膚なきまでに打ち破り続けたジョーンが得たのは、愛ではなく死んだ沈黙でした。
・「私が自分だと思っていたものは、いったい何だったのだろう?」(ジョーン・スカダモア)
砂漠のまばゆい陽光の下、築き上げたプライドが砂の城のように崩れ去った瞬間の戦慄の独白。
中村妙子氏の訳文は、ジョーンの気位の高さと、その底にある底知れぬ空虚さの温度差を逃さず定着させています。この訳文の力こそが、ハヤカワ文庫版が半世紀を超えて愛読され続ける原動力です。