岡田以蔵が刑場の露と消えるまでの歩みは、幕末の政争に翻弄された階級闘争の歴史そのものでした。土佐藩郷士の長男として生まれた以蔵ですが、足軽以下の身分階層に位置づけられ、上士からの徹底した差別に晒されていた背景があります。武市半平太が率いる土佐勤王党に参加した以蔵は、その卓越した剣の腕を買われ、本間精一郎の暗殺をはじめ、京都で反対派を震え上がらせる数々の天誅(暗殺工作)に加担していきました。
しかし、文久3年(1863年)の「八月十八日の政変」を機に尊王攘夷派は一転して失脚。土佐藩でも前藩主・山内豊信(容堂)による勤王党への徹底的な大弾圧が幕を開けます。逃亡を続けた以蔵でしたが、元治元年(1864年)に京都で捕縛され、土佐へ送還されることとなりました。
投獄された以蔵を待っていたのは、想像を絶する過酷な拷問でした。土佐藩の過酷な取り調べ(三枚張りと呼ばれる板責めや笞打ちなど)に対し、以蔵は最初期こそ沈黙を守ったものの、肉体の限界を迎えてついに過去の暗殺事件を詳細に自白します。武市らは獄中から以蔵を「これほどの臆病者とは思わなかった」と激しく責め立てましたが、生身の人間として耐え難い肉体的破壊を受けた結果の自白でした。
以蔵に対する処刑理由は、本間精一郎らの要人暗殺への関与、および治安を乱した「重罪」によるものです。武市半平太が武士としての名誉を保たれた「切腹」を命じられたのに対し、以蔵に下された判決は罪人としての「打ち首および獄門(首晒し)」でした。この処遇の残酷な差こそが、封建社会の非情さを如実に物語っています。