江戸幕府の法制において、酷刑のあり方は劇的に変化した。天下を統一した徳川家康は、法秩序の安定を目指して刑罰の整備を進めた。幕府の基本法典である『公事方御定書』に定められた死刑は、下手人、死罪、獄門、磔、火罪、鋸引きの6種類であり、ここには牛裂きの文字はない。
明治期にまとめられた『徳川女刑罰史』などの文献や、エロティシズムと残酷趣味を融合させた後世のポップカルチャーでは、あたかも江戸城下で残虐な隠し刑罰が横行していたかのように描かれがちだ。しかし史律に鑑みれば、江戸幕府の公定刑としては完全に廃止されていたのが史実である。家康以降の治世において、牛裂きは「私刑」または「戦乱期の例外措置」に過ぎなかった。