では、なぜ面識すらなかった相手に対して、紫式部はあれほど辛辣な言葉を書き残したのでしょうか。問題の記述は、寛弘5年(1008年)から寛弘7年(1010年)頃にかけて執筆されたとされる『紫式部日記』の有名な消息文(手紙形式の記述)に登場します。
後世の読者を驚かせ続けるその一節を、原文のニュアンスを損なわずに現代語訳してみましょう。
【『紫式部日記』該当箇所の原文】 「清少納言こそ、したり顔にいみじう侍りける人。さばかりさかしだち、真名書き散らして侍るほども、よく見れば、まだいと足らぬこと多かり。かく、人に異ならむと思ひ好める人は、後々見劣りし、ただいとあはれに、はかなきことも見過ぐさぬほどに、おのづからさるまじき過ちもしつ犯し、あだなる様にもなりぬる人、行く末、終に何事か良からむ」 【現代語訳】
「清少納言ときたら、得意気な顔をしてひどく偉そうに振る舞っていた人です。あれほど利口ぶって漢字を書き散らしていますが、その知識をよくよく見れば、まだまだ至らない点がたくさんあります。このように人とは違っていようと自ら好んで目立とうとする人は、後々になって必ず見劣りがするものです。風流ぶって些細なことにも過剰に感動してみせるうちに、自然と軽はずみな失敗をしでかし、浮ついた振る舞いになってしまう。そんな人の行く末が、最終的に良いものになるはずがありません」
現代の感覚で言えば、まさに「SNSでの辛辣な公開批判」そのものです。紫式部は清少納言の知性、漢字(漢詩文)の教養、そして自己顕示欲の強さを徹底的に糾弾しています。
この批判の背景には、当時の宮廷政治の生々しい対立構造がありました。紫式部が仕えた藤原彰子の父は、時の権力者・藤原道長です。道長は自らの権勢を盤石にするため、娘の彰子を一条天皇に入内させましたが、一条天皇の心には若くして非業の死を遂げた先妻・定子への深い追慕が残り続けていました。
そして、その亡き定子の素晴らしさと、かつての中関白家サロンの輝きを世に知らしめ、宮廷内でベストセラーとなっていたのが清少納言の『枕草子』だったのです。紫式部は、後発の後宮である彰子サロンのステータスを高め、一条天皇の関心をこちらへ引きつけなければならないという重いプロデュース責任を背負っていました。宮廷の古参貴族たちが「昔の定子様のサロンは本当に洗練されていた」「清少納言は才気煥発だった」と懐古する声を聞くたびに、紫式部の中で前時代のアイコンである清少納言への強烈な対抗意識と苛立ちが募っていったと考えられます。