シベリア出兵の発端は、1917年にロシアで起きたロシア革命(十月革命)です。レーニン率いるボリシェヴィキが政権を掌握すると、ロシアは第一次世界大戦の同盟国陣営(英仏露など)を離脱し、敵国ドイツと単独講和(ブレスト=リトフスク条約)を結びました。これにより、東部戦線でドイツ軍と対峙していた戦力が西部戦線へ集中することを恐れた英仏両国は、ロシア国内の反革命勢力を支援し、東部戦線を再構築しようと画策します。
そこで浮上した公式の大義名分がチェコスロバキア軍救出でした。当時、ロシア戦線で戦っていたチェコスロバキア軍団(約5万人)は、シベリア鉄道を経由して極東ウラジオストクへ向かい、海路で西欧へ渡ってドイツと戦い直す計画を立てていました。しかし、移動の途上で赤軍(ソヴィエト政権軍)と武力衝突を起こし、シベリア各地で孤立します。米国ウッドロウ・ウィルソン大統領は1918年7月、日本に対してチェコ軍救出を名目とした共同出兵を提案しました。
しかし、当時の日本政府・陸軍の真の狙いは全く別のところにありました。当時の陸軍参謀総長・上原勇作ら陸軍中枢は、共産主義革命(赤化)が隣接する満州(中国東北部)や朝鮮半島に波及することを極度に警戒していました。同時に、ロシアの混乱に乗じてバイカル湖以東の東シベリア一帯に親日的な緩衝政権を樹立し、日本の権益と勢力圏を決定的に広げようという野心を抱いていたのです。
米国が提案した出兵規模は「日米各7,000人程度」という限定的な作戦でした。ところが、日本は協調路線を無視して最終的に最大約7万3,000人もの大軍を送り込みます。この露骨な領土的・権益的野心が、のちに米英からの強い不信を買い、国際的な孤立を招く根本原因となりました。