「電話の向こうに鈴虫の声を届けようとしても、まったく相手に通じない」という現象の根底には、通信網が人間の音声を効率よく届けるために施してきた設計思想があります。その主たる要因は、鈴虫の鳴き声の周波数と、電話回線が定めた伝送帯域のミスマッチです。
音の高さは1秒間に空気が振動する回数である「周波数(Hz:ヘルツ)」で表されます。一般的な成人男性の話し声は100Hz〜150Hz程度、成人女性でも200Hz〜300Hz前後です。これに対し、鈴虫の鳴き声の周波数は約4,000Hz〜4,500Hz(4kHz〜4.5kHz)という極めて高い帯域に集中しています。
日本電信電話(NTT)の固定電話や、従来の3G回線までの携帯電話規格では、通話品質の安定と回線容量の節約を両立させるため、人間が発する声の主要帯域である「300Hz〜3,400Hz(3.4kHz)」のみを通過させるバンドパスフィルターを採用していました。この帯域幅を音響通信の専門用語で「ナローバンド(狭帯域)」と呼びます。3.4kHzを超える高い音は、回線の混雑やノイズ混入を防ぐ目的でバッサリと機械的にカットされていたため、4.5kHzで響く鈴虫の澄んだ声は受話器の手前で完全に消滅していたのです。
では、通信技術が飛躍的に高度化した現在なら聞こえるのでしょうか。スマートフォンの主流であるVoLTE(Voice over LTE)では「AMR-WB」と呼ばれる広帯域音声コーデックが普及し、伝送帯域は50Hz〜7,000Hz(7kHz)まで拡張されました。理論上、4.5kHzの鈴虫の声はこの帯域内に収まるため、通話相手へ届くはずです。
しかし、ここで立ちふさがるのがスマートフォンの高度な「AIノイズキャンセリング機能」です。端末のマイクや通信アプリのアルゴリズムは、人間の肉声以外の規則的な環境音を「除去すべき背景雑音」と自動判定します。その結果、周波数の制限をクリアした最新端末同士の通話であっても、背後で激しく鳴り響く鈴虫の声が瞬時にノイズと見なされ、デジタル処理によって掻き消されてしまう事態が頻発しています。鈴虫の声が電話で聞こえない理由は、かつての「周波数の壁」から、現代の「ノイズキャンセリングの壁」へと進化を遂げていたのです。