なぜ、これほどまでに長大な名前が付けられたのでしょうか。その背景には、19世紀末のスペイン南部におけるカトリックの伝統儀礼と、ピカソの出生時に起きた命のドラマが存在します。
1881年10月25日夜、アンダルシア州マラガのメルセー広場に面した自宅でピカソが誕生した際、赤ん坊は呼吸をしておらず、助産師は死産だと判断してテーブルの上に放置しました。そこに居合わせた叔父で医師のドン・サルバドールが、口にくわえていた葉巻の煙を赤ん坊の顔に吹きかけたところ、刺激によって激しく泣き叫び、奇跡的に息を吹き返したという逸話は、ピカソ自身の回顧録や初期の伝記作家ジョン・リチャードソンの著述でも克明に伝えられています。
一度は失われかけた我が子の命に対する両親の畏敬の念と、健やかな成長を願う親族の祈りが、名付けの熱量へと直結しました。名前の各要素を分解すると、すべてに明確な敬意の対象が存在しています。
- パブロ(Pablo):早逝した父方の叔父(パブロ・ルイス・イ・ブラスコ)への追悼と敬意。
- ディエゴ(Diego):父方の祖父(ディエゴ・ルイス・デ・アロ・イ・パディーリャ)の名。
- ホセ(José):実父(ホセ・ルイス・イ・ブラスコ)の名、および聖ヨセフへの祈念。
- フランシスコ・デ・パウラ(Francisco de Paula):マラガ地方で篤く信仰される聖人「パオラの聖フランシスコ」に由来。
- ファン・ネポムセーノ(Juan Nepomuceno):告白の秘密を守り抜いた殉教聖人「ネポムクの聖ヨハネ」。ピカソの名付け親となった叔父の守護聖人。
- マリーア・デ・ロス・レメディオス(María de los Remedios):「救済の聖母マリア」。マラガの守護聖母であり、代母(洗礼の立会人)となった叔母の名。
- シプリアーノ(Cipriano):ピカソが生まれた10月25日のカトリック聖人暦に該当する聖キプリアヌス。
- デ・ラ・サンティシマ・トリニダード(de la Santísima Trinidad):「至聖三位一体(父と子と聖霊)」に身を捧げる信仰の言葉。
- ルイス・イ・ピカソ(Ruiz y Picasso):父方の第一姓「ルイス」と、母方の第一姓「ピカソ」を結ぶスペイン伝統の複合姓。
日本における落語『寿限無』が、子どもの長寿を祈ってめでたい言葉をすべて詰め込んだのと同様に、アンダルシアの伝統でも「聖人の名を多く冠するほど、天上の守護者が増えて悪霊や病から守られる」と信じられていました。つまり、この長い名前は単なる見栄や奇行ではなく、切実な親心と信仰の結晶だったのです。