明治43年、長野県明科での爆薬製造発覚を発端に、事態は怒涛の勢いで展開した。検察と警察が目をつけたのは、天皇制に疑問を呈し、労働者の権利や社会改革を主張していた平民社のグループだった。検挙された人々の中には、事件の計画すら知らなかった者が大半を占めていた。
判決までのスピードは異常だった。通常の裁判手続はことごとく省略され、弁護側の反論はことごとく退けられた。国家の最高権威に対する冒涜という大義名分のもと、法廷は真実を追究する場ではなく、国家の意志を見せつける見せしめの舞台へと変貌したのだ。暗黒裁判の果てに下された死刑判決は、言論界全体に絶望的な冷や水を浴びせかけた。