ここで解消しておくべき重大な誤解があります。ネット上の議論やマネジメント研修において、「船頭多くして船山に登るを過度に恐れるあまり、多様な意見の吸い上げ(ダイバーシティ)まで抑制してしまう」という極端な揺り戻しが見られる点です。
ことわざが批判しているのは、「アイデアや意見を出す乗客が多いこと」ではありません。「船を操舵する最終決定権(舵)を握る人間が複数存在し、互いに譲らないこと」が諸悪の根源です。意見出しのフェーズにおける百家争鳴はイノベーションの源泉ですが、それを「いつ、誰が、どの基準で採用し、実行の号令をかけるか」という実行フェーズにおいては、決定権は厳格に1人に絞られていなければなりません。
社会心理学の研究では、この現象を「責任の分散(Diffusion of responsibility)」や「リンゲルマン効果(社会的怠惰)」の枠組みで説明します。船頭が1人しかいない場合、航行事故の責任は100%その船頭に帰属するため、極度の緊張感と当事者意識を持って海図を読みます。しかし船頭が5人になった瞬間、「誰かが気付くだろう」「自分だけの責任ではない」という無意識の甘えと責任回避が発生し、かえって重大な危険を見落とす確率が高まるのです。
舵取り役と助言役の境界線が消失し、全員が「権限はないのに口だけは出す名誉船頭」と化したとき、組織は不可避的に山へと向かい始めます。