1940年秋から真珠湾攻撃に至るまでの1年数カ月は、事態が恐ろしいスピードで悪化していった期間です。歴史の因果関係を把握するために、重要なマイルストーンを整理します。
【仏印進駐から太平洋戦争開戦までの年表】
- 1940年9月23日:日本軍が北部仏印への進駐を開始。
- 1940年9月27日:日独伊三国同盟を締結。米国の対日警戒感が一気に跳ね上がる。
- 1941年7月2日:御前会議で「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」を決定(南進政策の確定)。
- 1941年7月18日:第3次近衛内閣が成立(松岡外相を排除し対米交渉継続を図る)。
- 1941年7月26日:アメリカがアメリカ対日資産凍結令を発令。イギリスも即座に同調。
- 1941年7月28日:日本軍が南部仏印への進駐を開始(陸路・海路から約4万人が上陸)。
- 1941年8月1日:アメリカが対日石油全面禁輸に踏み切る。蘭印も石油協定を破棄。
- 1941年10月18日:対米交渉の行き詰まりから近衛内閣が総辞職、東条英機内閣が発足。
- 1941年11月26日:米国から実質的な最後通牒である「ハルノート」が手交される。
- 1941年12月8日:日本軍がハワイ真珠湾およびマレー半島を奇襲攻撃、太平洋戦争勃発。
当時の駐日米国大使ジョセフ・グルーは自著や手記の中で、南部進駐の報に接した際の本国政府の激高ぶりを記しています。米国世論はそれまで孤立主義が根強く、アジアの紛争への直接介入には慎重でしたが、南部進駐を契機に「日本の膨張主義をこれ以上看過できない」という強硬論が一気に主流化しました。
8月1日の石油禁輸は、日本海軍にとって「死刑宣告」に等しい措置でした。当時の軍令部総長・永野修身が昭和天皇に奏上した「このまま何もしなければ、2年で海軍の燃料は枯渇し、戦う力を失う。戦うなら今しかない」という趣旨の危機感は、まさに南部仏印進駐が引き金となって自らを追い詰めた結果だったのです。