後醍醐天皇の島流しはなぜ起きた?隠岐脱出の真相と幕府滅亡の裏側

後醍醐天皇の島流しはなぜ起きた?隠岐脱出の真相と幕府滅亡の裏側

後醍醐天皇の島流しはなぜ起きた?隠岐脱出の真相と幕府滅亡の裏側の詳細について、分かりやすい解説を詳しくお届けします。

後醍醐天皇が配流されるに至った直接の引き金は、元弘元年(1331年)に勃発した元弘の変です。しかし、幕府との対立はその数年前から始まっていました。朝廷内部における皇位継承の争い(大覚寺統と持明院統の分裂)に鎌倉幕府が介入し、天皇の在任期間を人為的に制限しようとしたことに対し、後醍醐天皇は強い危機感を抱いていました。

「天子親政」すなわち天皇自身による直接統治を取り戻すため、帝は1324年の「正中の変」で最初の倒幕を試みます。これは事前に計画が漏洩して未遂に終わったものの、後醍醐天皇は諦めませんでした。密かに側近の公家や有力武士、寺社勢力と接触を重ね、1331年に京都の御所を脱出して山城国の笠置山(京都府相楽郡)で本格的な挙兵に踏み切ります。

幕府は圧倒的な大軍を送り込み、笠置山はわずか1か月で陥落。幕府軍に捕らえられた後醍醐天皇は、翌1332年(正慶元年/元弘2年)3月、謀反の主犯として隠岐の島への配流を言い渡されました。中世において、天皇が廃位された上で島流しにされるのは、1221年の承久の乱における後鳥羽上皇以来、約110年ぶりの異例の厳罰でした。

鈴木 陽菜
著者

鈴木 陽菜

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