インターネット上の言説やポップカルチャーの消費において、「前田慶次=戦場で槍を振り回す豪傑」という一面的な捉え方が依然として根強く見られます。しかし、一次史料を精査すると、慶次の本質は乱世の武闘派というよりも、「高度な中世文芸の継承者」であったという事実が浮き彫りになります。
慶次は、戦国屈指の文化人として知られる細川幽斎(藤孝)や里村紹巴と深い親交を結んでいました。上杉家仕官後も、直江兼続が主宰した各種の連歌会や詩会において中心的な役割を果たしており、慶長7年(1602年)に米沢で催された『亀岡文殊堂奉納詩歌百首』には、慶次が詠んだ極めて格調の高い和歌が残されています。兼続と慶次の関係は、主君と家臣という主従の枠組みを遥かに超え、「古典の美を深く共有する精神的同志」であったと評価するのが妥当です。
また、慶次の没年についても歴史学界では議論が続いています。一般的には慶長17年(1612年)6月4日没(享年70前後)とする説が広く流布していますが、加賀藩側の記録など一部史料には慶長10年(1605年)没とする異説も存在します。米沢の堂森善光寺に残る位牌や過去帳の記録、堂森での隠棲期間の実証研究により現在では慶長17年説が有力視されていますが、自らの死生観すら誇示することなく、文字通り「夢の如く」去っていった引き際の鮮やかさが、後世の謎を深める要因となっています。