三淵藤英の生涯を語るうえで避けて通れないのが、実弟である細川藤孝(幽斎)との相克です。二人は室町幕府の重臣・三淵晴員の息子として生まれました。藤孝は伯父である和泉上守護家・細川元常の養子となり、細川の名跡を継ぎます。永禄の変で13代将軍・足利義輝が三好三人衆らに討たれた際、幽閉されていた弟の覚慶(のちの足利義昭)を興福寺から救出し、越前の朝倉氏や尾張の織田信長を頼って奔走した時期、兄弟は志を一つにする無二の盟友でした。
しかし、信長の圧倒的な軍事力によって義昭が征夷大将軍に就任した直後から、兄弟の間に埋めがたい溝が生じ始めます。藤英は父祖の代から受け継がれた「将軍家への無私の忠義」を至上命題とする正統派の幕臣でした。将軍親政を志向し、信長を用心深く警戒する義昭の路線を支持し続けたのです。
対照的に、弟の藤孝は時代を鋭く洞察する現実主義者でした。武力を持たない幕府の形式的権威がいずれ織田の軍事力に呑み込まれることを見抜き、早くから信長個人への接近を図ります。元亀4年に義昭が信長への敵意を露わにした際、藤孝は涙ながらに義昭へ翻意を促す書状を提出。それが聞き入れられないと知るや、義昭を見限って信長に完全臣従する道を選びました。
二条御所の戦いにおいて、藤英が城内で徹底抗戦を主張したのに対し、藤孝は織田軍の一翼として城を包囲する側に回りました。肉親の情を断ち切り、家名の存続を最優先した藤孝の冷徹な決断は、結果として細川家を近世大名へと飛躍させる基盤を作りました。しかしそれは同時に、兄・藤英を「信長に屈しない旧時代の遺物」として孤立させる決定打となったのです。