李承晩の政治行動を読み解く上で、多くの歴史家が首を傾げるのが「なぜそこまで執拗に反日政策を推進したのか」という動機です。プリンストン大学で国際法を学び、国際協調の重要性を誰よりも熟知していたはずのインテリが、なぜ近隣国である日本との協調を頑なに拒み、李承晩ラインのような無法地帯を生み出したのでしょうか。
その背景には、単なる感情的な憎悪を超えた、権力基盤の脆弱さを隠蔽するための極めて高度な国内政治的計算が存在していました。
第1の理由は、自らの政権基盤を支えた「親日派(日帝残滓)」官僚・警察の免罪とカモフラージュです。解放直後の韓国において、国家機構を迅速に機能させるためには、日本統治下で行政や警察の実務を担っていた朝鮮人官僚たちの登用が不可欠でした。李承晩政権の中枢、とりわけ治安部門や軍部の要職は、元日本軍将校や特高警察出身者で埋め尽くされていました。
国民の間には当然、「独立したはずの祖国で、かつて同胞を弾圧していた親日警察がそのまま権力を握っている」ことへの強烈な反発がありました。李承晩はこの突き上げをかわすため、1949年に国会が設置した「反民族行為特別調査委員会(反民特委)」を警察力を使って強制的に解体・無力化しました。そして、自らが親日派を庇護しているという批判を封殺するために採用したのが、「指導者自身が誰よりも過激な反日イデオロギーを掲げる」という逆説的なポピュリズム戦略だったのです。
第2の理由は、分断国家における国民統合の「敵」の創出です。共産主義(北朝鮮)という「北の敵」と戦うだけでは、国内の不平不満を完全に抑え込むことはできませんでした。そこで、植民地支配の生々しい記憶が残る「過去の支配者・日本」を「南の敵」として設定し、国民の愛国心を絶えず外敵へ向けさせることで、自身の独裁政治や経済政策の失敗から国民の目を逸らし続けたのです。
第3の理由は、アメリカに対する強硬な外交レバレッジでした。李承晩は、アメリカが東アジアの反共防衛ラインとして日本を重視し、日韓の国交正常化を急いでいることを見抜いていました。だからこそ、あえて日本に対して強硬な態度を取り続け、「韓国を安定させたいならば、我が政権に対して軍事援助と経済援助を惜しみなく注ぎ込め」という対米揺さぶりのカードとして日本問題を利用したのです。