二人の運命的な出会いは1995年9月1日、ロンドンのロイヤル・ブロンプトン病院で起きた。当時、友人の夫が受けた心臓バイパス手術の付き添いとして病院を訪れていたダイアナ妃は、エレベーターホールで青い手術着(スクラブ)を着た大柄な心臓外科医とすれ違う。それが当時36歳だったハスナット・カーンだった。
チャールズ皇太子(現・チャールズ3世)との結婚生活が事実上破綻し、王室の冷酷な儀礼とメディアの猛追に傷つき疲弊していたダイアナ妃にとって、カーン医師の存在は衝撃的だった。彼はダイアナ妃を前にしても、王族扱いするどころか愛想笑い一つ浮かべず、ひたすら目の前の重症患者の治療に全神経を注いでいたのだ。ダイアナ妃は後に執事ポール・バレルに対して「彼には一切の打算がない。私を『プリンセス・オブ・ウェールズ』ではなく、一人の人間として見てくれた」と熱狂的に語り、彼に「ミスター・ワンダフル(Mr. Wonderful)」という特別な愛称を授けた。
ハスナット・カーンの経歴は、極めてストイックな臨床医そのものである。1958年、パキスタンのジェーラムにある名門パシュトゥーン系貴族の家庭に生まれた。母国で医学を修めた後、オーストラリアのシドニーで心臓外科の研鑽を積み、1980年代後半に英国へ渡航。以降、ロンドンの主要病院で昼夜を問わず心臓血管外科医としてメスを握り続けた。給与の多寡や名誉には無頓着で、古いアパートに暮らし、煙草とケンタッキーフライドチキンを好む飾らない性格だった。自らの容姿や肩書きに群がる上流階級の男たちに失望し続けていたダイアナ妃が、白衣に身を包み命と向き合うこの職人気質の医師に夢中になるまで、時間はかからなかった。