香川県の県庁所在地はなぜ高松?丸亀との歴史的攻防と丹下建築の真価

香川県の県庁所在地はなぜ高松?丸亀との歴史的攻防と丹下建築の真価

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高松に県庁が置かれて一件落着、とはなりませんでした。実は香川県という自治体は、明治初期の行政再編によって二度も地図上から消滅しています。

最初の消滅は1873年(明治6年)2月、財政難と大県制の推進を理由に、阿波国(徳島県)を中心とする名東県(みょうどうけん)へと強制的に編入された出来事です。この時期、讃岐の行政機関は名東県の支庁へと格下げされ、徴収された多額の地租が徳島側のインフラ整備へ優先配分されるなど、地域住民の不満は極限まで高まりました。1875年(明治8年)に一度は香川県として独立を果たしたものの、翌1876年(明治9年)には今度は西隣の愛媛県へと併合されてしまいます。

「自分たちの税金が松山の城下町復興ばかりに使われ、讃岐の治水や道路整備は放置されている」。この危機感に立ち上がったのが、後に東京株式取引所(現・東京証券取引所)の理事長などを歴任する高松出身の政治家・中野武営(なかの たけなか)をはじめとする旧高松藩・丸亀藩の有力者たちでした。彼らは官民挙げての「分県運動」を展開し、内務省や元老院へ幾度となく請願書を提出しました。

その粘り強い交渉が実を結び、1888年(明治21年)12月3日、ついに愛媛県から分立して現在の香川県が再設置されました。この再設置は全国47都道府県の中で最も遅い県域確定であり、香川県民にとって高松の県庁は「中央から与えられたもの」ではなく、「先人たちの血の滲むような陳情運動によって奪い返した誇りの象徴」という歴史的重みを持っています。

石川 優花
著者

石川 優花

心身ともに健康で持続可能なライフスタイルをテーマに、最新のウェルネストレンドを発信中。