『人間失格』を語る上で避けて通れないのが、作者・太宰治自身の生涯との驚くべき類似性と、執筆直後に訪れた死の真相です。本作はどこまでが実話で、どこからが創作なのでしょうか。
生い立ちとエピソードの自伝的背景
大庭葉蔵のプロフィールは、太宰治(本名:津島修治)の前半生を色濃く反映しています。
- 実家の環境:青森県北津軽郡金木村(現・五所川原市)の屈指の大地主・津島家。父・源右衛門は貴族院議員を務めた名士。
- 非合法運動と放校:東京帝国大学仏文科在学中の共産党シンパ活動と、実家からの分家除籍処分。
- 心中事件:1930(昭和5)年、銀座のバー給仕・田部シメ子と鎌倉の小動岬でカルモチン心中を図り、女性のみが死亡した事件(実話そのままのプロット)。
- 薬物依存:盲腸炎の手術後に処方された鎮痛剤パビナールの中毒になり、莫大な借金を抱えて武蔵野病院の精神病棟へ隔離された過去。
山崎富栄との玉川上水心中と「遺作」の真実
太宰治は1948年3月に熱海の旅館で『人間失格』を起稿し、埼玉県大宮(現・さいたま市)の借家に愛人の山崎富栄と籠もって執筆を続け、同年5月12日に脱稿しました。そのわずか1か月後の1948年6月13日深夜、激しい雨の降る中、太宰と山崎富栄は三鷹の玉川上水へ身を投じました。
二人の遺体が発見されたのは、6日後の6月19日――奇しくも太宰の39歳の誕生日でした(この日は現在も「桜桃忌」として多くの文学ファンが集う記念日となっています)。
遺書に残された「小説を書くのがいやになつた」という有名な言葉、そして進行していた重度の肺結核による喀血。作家としての全精力を『人間失格』という告白文学に注ぎ込み、魂を絞り尽くした直後の自死であったからこそ、この作品は太宰文学の「究極の遺書」としての凄惨なリアリティを帯びることになりました。