ネット上には「重曹で茶色いピロピロ汚れ(ワカメ状のゴミ)が大量に浮いてきた」という体験談が溢れています。しかし、界面活性剤やカビの生化学に詳しい専門家は「それは黒カビの表面が少し剥が壊されたに過ぎず、根本的な殺菌には至っていない」と警鐘を鳴らします。洗濯機の黒カビが重曹で落ちない理由は、pH(水素イオン濃度)の絶対的な不足にあります。
洗濯槽の裏側に繁殖する黒カビ(クラドスポリウムなど)は、石けんカスや皮脂汚れを栄養源にして強固な「バイオフィルム(菌膜)」を形成します。この頑密なバリアを破壊してカビの菌糸を死滅させるには、pH11以上の強いアルカリ性、あるいは次亜塩素酸による強力な酸化力が必要です。これに対し、重曹の水溶液はpH約8.2の弱アルカリ性にとどまります。弱アルカリ性は日常の軽い皮脂汚れを穏やかに落とすのには適していますが、強固に固着したカビの細胞膜を破壊する力は化学的に持ち合わせていません。
さらに多くの生活情報で推奨されている「洗濯槽掃除での重曹とクエン酸の割合(一般的に重曹2〜3に対してクエン酸1)」にも重大な化学的錯覚が潜んでいます。重曹とクエン酸を混ぜると激しく炭酸ガス(二酸化炭素)の泡が立ち上がります。視覚的には「強力に汚れを分解している」ように映りますが、化学的には弱アルカリと酸がお互いを打ち消し合う「中和反応」を起こしているだけです。中和によって弱アルカリ性の油分解力も、クエン酸特有の水垢・石けんカス分解力も同時に失われ、残るのは微量な塩(クエン酸ナトリウム)と水、気化したガスに過ぎません。発泡の物理的な振動で浮き上がった表面の汚れを見て「落ちた」と誤認することが、カビを温存させる元凶となっているのです。