カープが特定の巨大企業を親会社に持たない根本的な原因は、1949年12月の球団設立の経緯に直結しています。太平洋戦争末期の原子爆弾投下によって壊滅的な打撃を受けた広島において、市民に希望と復興の光を与えるプロジェクトとして産声を上げたのが広島カープでした。
創設当初の出資母体は広島県、広島市、中国新聞社、地元財界などでした。特定の富豪や単一の大企業が全額を拠出したわけではなかったため、発足当初から慢性的な資金難に喘ぐことになります。選手への給料遅配や遠征費の枯渇が日常茶飯事であり、1951年春には大洋ホエールズ(現横浜DeNAベイスターズ)との合併話が具体化するほどの危機に直面しました。
この存亡の危機を救ったのが、地元市民の熱狂的な支援でした。当時の広島総合球場前に酒樽が置かれ、道行く市民やファンがなけなしの小銭や紙幣を投げ入れた「樽募金」の逸話は、全国のスポーツ史に刻まれています。1951年だけで約440万円、後年の複数回にわたる募金活動を通じて、現在の貨幣価値で数億円規模に相当する浄財が集まり、球団の解散が回避されました。
「自分たちが身銭を切って守り抜いた球団である」という強烈な当事者意識が広島市民の心に深く根づいた瞬間でした。1968年、経営再建のために東洋工業(現マツダ)の社長であった松田恒次氏が筆頭出資者となり、球団名に「東洋」が冠されましたが、球団そのものを企業の私物にはせず、独立性を保ったまま支援する方針が貫かれました。これこそが、カープが21世紀の現在も「市民球団」と敬称される不変の理由です。