吉田カバンの歴史において、最も劇的な転換点となったのが、2007年の吉田克幸とその息子・吉田玲雄による独立劇です。なぜ、名作「タンカー」を生み出し、日本人として初めてニューヨーク近代美術館(MoMA)のデザインストアに作品が選定されるなどブランドの絶頂期を築いた克幸は、創業家企業を去ったのでしょうか。
当時のインタビュー手記や自著において、克幸は自身の独立理由として「深刻な大病(咽頭がんの告知と闘病)」と「大量生産・グローバル資本主義への強烈な違和感」を率直に告白しています。
2000年代中盤、吉田カバンは年商100億円規模のメガブランドへと成長していました。しかし、需要が爆発するにつれて、克幸の頭をよぎったのは「本当に自分が作りたかったものはこれなのか」という葛藤でした。全国の販売店から寄せられる追加生産のプレッシャー、効率化を求める声。そんな中、自身の命を脅かす大病に直面したことで、死生観が一変します。「残された人生で、採算や効率を度外視した、世界基準の最高峰の手仕事だけを残したい」という衝動が克幸を突き動かしました。
その強い意志に共鳴したのが、海外留学から帰国し、作家・写真家として感性を研ぎ澄ませていた息子の吉田玲雄でした。玲雄は映画『ホノカアボーイ』の原作者として知られる通り、土地の記憶や人の温もり、ヴィンテージカルチャーに深い審美眼を持っていました。
2007年、父子は吉田カバンの役員・職を退任。翌2008年、東京・銀座の裏路地にわずか数名の仲間とともに「株式会社ポータークラシック(Porter Classic)」を設立しました。社名に「ポーター」の文字を残したことについて、克幸は関係者に対し「父(吉蔵)への敬意と、自分が培ってきた鞄作りの誇りを一生背負い続ける覚悟の表れ」だと語っています。決して泥沼の決裂ではなく、職人としての魂を純化させるための必然的なスピンアウトでした。