司馬遷が著した中国古代の基本史料『史記』を紐解くと、楊端和の史実における実像は、漫画で描かれる「山界の女王」とは大きく趣を異にしています。『史記』の「秦始皇本紀」や「趙世家」において、楊端和は紀元前238年に魏の衍氏(えんし)を攻め落とした記録を皮切りに、王翦(おうせん)や桓騎(かんき)といった秦の最高峰の将軍らと肩を並べて戦功を挙げた正統派の軍人として登場します。
古代中国の軍事記録において、女性が軍権を握って軍団を率いた場合は「婦好(ふこう)」のように特筆大書されるのが通例です。楊端和に関しては性別に関する言及が一切なく、他の男性武将と同様の文脈で淡々と戦果が記述されていることから、歴史学の世界では楊端和の性別と男性説がほぼ定説とみなされています。また、山の民という出自の記述はなく、秦王嬴政(えいせい)の配下にある秦人将軍の一人であったというのが学術的な共通認識です。
原泰久先生による漫画『キングダム』の凄みは、この歴史上の無骨な記録を大胆に解釈し直した点にあります。秦の始祖である穆公(ぼくこう)の時代に存在した「山の民との盟約」という史実の伏線と、秦軍屈指の猛将・楊端和の存在をクロスオーバーさせ、「仮面を脱げば絶世の美女であり、山界の覇王」という不世出のヒロイン兼武将を生み出しました。この創作と史実の精緻な融合こそが、読者を惹きつけてやまない楊端和神話の源流となっています。