型破りな大学生活を経て、高市氏が進路に選んだのは民間企業への就職ではなく、松下幸之助が私財を投じて設立したリーダー育成機関「松下政経塾」(1984年入塾・第5期生)でした。
松下政経塾での生活は、毎朝5キロのジョギングと早朝清掃から始まり、徹底した人間教育と国家ビジョンの叩き込みが行われる過酷な環境です。ここで政策立案の基礎を徹底的に叩き込まれた高市氏は、1987年に塾の支援を受けて渡米。アメリカ合衆国連邦議会のパトリシア・シュローダー下院議員の事務所で、日本人初の「コングレッショナル・フェロー(議会研究員)」として実務に従事しました。ワシントンD.C.の最前線で対日貿易摩擦の激化や防衛負担論の激弁を肌で目撃したことが、後の徹底した防衛・産業政策重視のスタンスを決定づけたと関係資料でも裏付けられています。
帰国後、アメリカでの経験や知見を買われてテレビ朝日の看板キャスターに抜擢されますが、本人の志は最初から「メディアで目立つこと」ではなく「国家の制度設計に直接関与すること」にありました。1992年の参院選落選という手痛い洗礼を受けながらも、翌1993年の第40回衆議院議員総選挙において、奈良県全県区から完全無所属で出馬。地盤・看板・鞄のまったくない状況から、泥まみれの辻立ちを繰り返してトップ当選(得票数11万票超)を果たすという伝説的な政界デビューを飾りました。「ただの美人キャスター」と見くびっていた既存政党の幹部たちを、自前で書き上げた政策集と凄まじい演説力で粉砕した瞬間でした。