どれほど魅力的な物語であっても、冷厳な歴史検証の前には抗えません。義経=チンギスハン説が学術的に明確な「嘘」と断定される最大の理由は、同時代の一級史料が証明する両者の「年代・行動の矛盾」にあります。
モンゴル側の根本史料である『元朝秘史(モンゴル秘史)』や、イル・ハン国の宰相ラシード・アッディーンが編纂した『集史』の記述を照合すると、チンギス・ハン(幼名テムジン)の生涯は克明に記録されています。テムジンの生年は諸説あるものの、通説では1162年頃(長寛元年)とされ、義経の生年である1159年(平治元年)とほぼ同年代です。
決定的な破綻は、義経が日本で活動していた1180年代の動向にあります。義経が兄・頼朝の命を受けて木曾義仲を討ち、一ノ谷・屋島・壇ノ浦の合戦で平氏を滅ぼしていた1184年から1185年、テムジンはすでにモンゴル高原で妻ボルテをメルキト部に奪われ、盟友ジャムカやケレイト部のトオリル・ハン(オン・ハン)と連合してこれを奪回するなど、遊牧部族間の激しい抗争に明け暮れていました。
さらに、義経が奥州平泉で包囲されていた1189年、モンゴル高原のテムジンは諸部族を統合し、第一次即位とも言える最初のカン(ハン)の地位に推載されています。平泉で命からがら逃げ延びた一人の日本人貴族が、わずか数か月や数年で言葉も風習も戦法も全く異なるモンゴルの草原地帯に現れ、血統と部族の絆を最重要視する遊牧民の上に君臨することなど、遊牧社会の軍事・政治構造上、100%不可能です。