会津若松城が日本屈指の堅城として語り継がれる最大の契機となったのが、1868年(慶応4年)の戊辰戦争における会津籠城戦です。新政府軍はおよそ3,000門とも言われる最新鋭のアームストロング砲やガトリング砲を投入し、城内に向けて連日猛烈な砲撃を浴びせました。当時の記録写真には、砲弾によって壁が蜂の巣のように破壊されながらも、崩落することなく毅然と立ち続けた天守閣の姿が克明に残されています。
この防衛力を支えたのが、戦国末期から江戸初期にかけて蒲生氏郷や加藤嘉明らによって築き上げられた高度な築城技術です。敵の直進を阻むクランク状の「枡形虎口(ますがたこぐち)」、城壁へ素早く兵を配備できる「武者走り」、そして堀と土塁が複雑に絡み合う立体的な防衛ラインが、圧倒的兵力を誇る新政府軍の侵入を徹底して拒み続けました。
しかし、その激闘の裏には痛切な悲劇が刻まれています。16〜17歳の少年たちで構成された白虎隊の士中二番隊が、飯盛山から城下町を見下ろした際、城周辺から立ち上る猛烈な黒煙を目撃。「城はすでに落城した」と判断した少年たちが自刃を選んだ経緯は、会津の誇りと悲壮美を象徴する歴史的事件として広く知られています。実際には城は落ちておらず、会津藩主・松平容保のもとで降伏開城を迎えるまで、城兵たちは極限状態の中で誇り高く戦い抜きました。