1884年(明治17年)、県庁は栃木市から宇都宮市へと電撃的に移転されることになります。この決定打となったのが、同年1月に第3代栃木県令(現在の県知事)として着任した三島通庸(みしま みちつね)の存在でした。
三島通庸は、土木事業を強硬に推進する一方で、激しさを増していた自由民権運動を徹底的に弾圧したことから「鬼県令」の異名をとった人物です。三島が主導した県庁移転には、主に2つの決定的な理由がありました。
第1の理由は、交通網と産業発展の将来性です。宇都宮は江戸時代から日光街道と奥州街道が分岐する宿場町として栄え、明治期には東北本線(日本鉄道)の建設計画が進んでいました。県内全域へのアクセスや物流のハブとして、宇都宮が栃木町よりも圧倒的に有利であると判断されたのです。
第2の理由は、より切実な政治的対立と治安対策でした。当時の栃木町周辺は、豪商や知識層を中心に自由民権運動の活動が非常に活発な地域でした。明治政府の絶対主義的な統治を進めたい三島にとって、反政府的な民権派の拠点の真っ只中に県庁を置き続けることは大きなリスクだったのです。三島は着任からわずか数カ月後の1884年5月、太政官布告を取り付けて移転を強行しました。
現在、栃木市入舟町の旧県庁跡地(現在の栃木市役所別館周辺)には「栃木県庁跡碑」が静かに佇んでおり、かつてこの地が県政の心臓部であった歴史を今に伝えています。