作中で雫を魅了したあの猫の人形のフルネームは、「フンベルト・フォン・ジッキンゲン男爵(Baron Humbert von Gikkingen)」と名乗ります。「フォン(von)」はドイツ語圏における貴族の出自を示す称号であり、彼が正真正銘の男爵位を持つ紳士として造型されていることを裏付けています。劇中では愛称として「バロン」と呼ばれますが、その出自は遠く海を越えたヨーロッパの地にありました。
バロンの正体は、西司朗が営む骨董屋「地球屋」に置かれた古美術品の人形です。しかし、一般的な置物とは一線を画す異様な存在感を放ちます。その最大の要因は、見る者の心を射抜くようなエメラルドグリーンの瞳に隠されています。西老人が雫に語り聞かせた逸話によれば、この瞳は「エンゲルス・ツィマー(天使の部屋)」と呼ばれる特殊な技術によって生み出された奇跡の産物でした。
ガラスを焼く工程で偶然入り込んだ微細な気泡や傷が、夕暮れの斜光を浴びることで乱反射を起こし、まるで瞳の奥底に小さな光の部屋が浮かび上がるように設計されています。職人の意図すら超えた偶然の産物であるこの仕掛けは、機械による大量生産品には決して宿らない「魂」を宿す依代となりました。雫がバロンの瞳を覗き込んだ瞬間に覚えた眩暈のような憧憬は、単なる美術品への感銘ではなく、異世界の住人と魂が交歓した瞬間だったと解釈できます。