後桜町天皇は、元文5年(1740年)8月3日、第115代・桜町天皇の第二皇女として誕生しました。幼名は緋宮(あけのみや)、名は智子(としこ)内親王です。彼女が即位することになった最大の要因は、宝暦12年(1762年)7月、実弟である第116代・桃園天皇が22歳という若さで突如崩御したことでした。
当時、桃園天皇の第一皇子であった英仁親王(のちの後桃園天皇)はわずか5歳でした。江戸時代の朝廷において、5歳の幼児が即位して複雑な宮中祭祀や幕府との折衝を担うことは極めて困難であり、幼君擁立による政情不安が懸念されました。さらに、直前の朝廷では尊王論に傾倒した若手公家が幕府に処罰された「宝暦事件(1758年)」の動揺が色濃く残っており、皇室の安定が最優先事項となっていたのです。
摂政・近衛内前をはじめとする朝廷首脳部は、傍系の宮家から新天皇を迎える選択肢も検討しましたが、直系の血統を守るため、桃園天皇の実姉であり、桜町天皇の皇女である智子内親王の擁立を決定しました。こうして宝暦12年(1762年)9月15日、智子内親王は第117代天皇として践祚し、奈良時代の後廃帝(称徳天皇)以来、実に800余年ぶりの女性天皇誕生となった前代の明正天皇に続く、江戸時代2人目の女性天皇が誕生しました。