1944(昭和19)年半ば、マリアナ沖海戦の敗北によって絶対国防圏が崩壊し、日本の敗色は濃厚となっていました。制空権と制海権を完全に掌握した米軍に対し、熟練搭乗員や物資を消耗し尽くした日本軍には、正面から対抗できる通常戦力が残されていませんでした。
こうした極限状態のなか、1944年10月のフィリピン・レイテ沖海戦において、海軍の関行男大尉率いる敷島隊が零戦に250キロ爆弾を搭載して敵艦に突入しました。これが神風特別攻撃隊の歴史の公式な始まりとされています。当初は現地司令官の判断による「一時的な奇襲戦法」と位置づけられていましたが、空母への損傷を与えた戦果が過大に評価され、軍令部や大本営はこれを組織的な主戦術へと格上げしていきました。
さらに事態を悪化させたのが、既存機の改造にとどまらず「搭乗員の生還を構造上完全に排除した専用兵器」の公式採用です。特攻兵器の開発理由として軍上層部が掲げたのは、「一機一艦轟沈」「一艇一艦必殺」による劣勢の一発逆転でした。しかしその根底には、資材や燃料が極端に不足するなか、安価な小型兵器に若者の命を載せて敵の大型艦を撃破しようとする、合理性を欠いた精神主義と組織的困窮がありました。